チェルノブイリ被害 チェルノブイリのツバメ達 チェルノブイリ失われたカルテ チェルノブイリの再検証

原爆実験とチェルノブイリからの日本被害
目次
● チェルノブイリの再検証
● 
チェルノブイリ事故
● 死者数
● 原因
● 事故の経緯
● 論争
● 事故発生直後の対応
● 直後の結果
● 影響
● 直後の影響
● 放射性物質の長期的動向
● 避難
● 健康被害
● 癌の症例
● 白血病
● 自然界への影響
● 事故後のチェルノブイリ
● 石棺
● 将来の補修の必要性
● シェルター構築計画
● 訪問
● 政治的余波
● 各国の汚染
チェルノブイリの汚染


Unnamed Zoonの1〜15Ci(キューリー)=1〜15の10の10乗Bqです。
1Ci(キューリー)=10000000000Bq
1KBq=1000Bq
1MBq=1000000Bq
40Ci以上の地=400000000000Bq以上となります。
1Km2=1/1000000m2
チェルノブイリ15Ci以下地域=150000Bq/m2以下となります。
東京都のセシウム沈着量=10KBm2q以下=10000Bq以下です。
チェルノブイリ周辺で非汚染地域とされる地域ですら東京都の15倍以上の汚染があるのです。
Ci(キューリー)の単位を知らないでKBqで計算したら東京都の方が大きな汚染地域となってしまいます。
木下黄太などは、単位を知っているのでしょうか?
さらにこれらの汚染マップは5年以上経過して作成されたもので、セシウム134(半減期2年)は含まれていないのです。
これらから、東京都とチェルノブイリ非汚染区の差は1/100以下と考えられます。

資料を見る時には使用している単位、核種を考えなければなりません。
汚染直後と汚染から5年以上経過した場合では、セシウム134は1/10に低下しています。
セシウム総量としては事故当初には、この倍は存在している計算になります。
第三区??第四区??
東京都のセシウム沈着量は10KBq以下(残念ながらこれは検出限界)。
どこからそんな数値が出てくるのでしょうか?
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チェルノブイリ事故
1986年4月26日1時23分(モスクワ時間にソビエト連邦(現:ウクライナ)のチェルノブイリ原子力発電所4号炉で起きた原子力事故。
最悪のレベル7(深刻な事故)に分類される事故である。

当時、チェルノブイリ原子力発電所にはソ連が独自に設計開発した黒鉛減速沸騰軽水圧力管型原子炉(RBMK)のRBMK-1000型を使用した4つの原子炉が稼働しており、そのうち4号炉が炉心溶融(メルトダウン)ののち爆発し、放射性降下物がウクライナ・ベラルーシ・ロシアなどを汚染し、史上最悪の原子力事故とされている。

1991年のソ連崩壊以後は原子力発電所が領土内に立地しているウクライナに処理義務がある。2010年現在もなお、原発から半径30km以内の地域での居住が禁止されるとともに、原発から北東へ向かって約350kmの範囲内にはホットスポットと呼ばれる局地的な高濃度汚染地域が約100箇所にわたって点在し、ホットスポット内においては農業や畜産業などが全面的に禁止されており、また、その周辺でも制限されている地域がある。

事故当時、爆発した4号炉は操業休止中であり、外部電源喪失を想定した非常用発電系統の実験[1]を行っていた。この実験中に制御不能に陥り、炉心が融解、爆発したとされる。爆発により、原子炉内の放射性物質が
大気中に14エクサベクレルに及ぶ放射性物質が放出された
当初、
ソ連政府はパニックや機密漏洩を恐れこの事故を内外に公表せず、施設周辺住民の避難措置も取られなかったため、彼らは数日間、事実を知らぬまま通常の生活を送り、高線量の放射性物質を浴び被曝した、しかし、翌4月27日にスウェーデンのフォルスマルク原子力発電所にてこの事故が原因の特定核種、高線量の放射性物質が検出され、近隣国からも同様の報告があったためスウェーデン当局が調査を開始、この調査結果について事実確認を受けたソ連は4月28日にその内容を認め、事故が世界中に発覚。
当初、フォルスマルク原発の技術者は、原発所内からの漏洩も疑い核戦争が起こったと考えた時期もあったという。

日本においても、5月3日に雨水中から放射性物質が確認された。
なお報道やインターネット上などで一時期目立った
「福島原発事故の線量はチェルノブイリの〜倍」という表現は、日本国内計測の線量を根拠にしたものであり、現地線量のことではない。

爆発後も火災は止まらず、消火活動が続いた。
アメリカの軍事衛星からも、赤く燃える原子炉中心部の様子が観察されたという。
ソ連当局は応急措置として、火災の鎮火と放射線の遮断の為にホウ素を混入させた砂5000tを直上からヘリコプターで4号炉に投下、水蒸気爆発(2次爆発)を防ぐため圧力抑制プールの排水、(後日、一部の溶融燃料の水槽到達を確認したが水蒸気爆発という規模の現象は起きなかった)減速材として炉心内へ鉛の大量投入、液体窒素を投入して周囲から冷却、炉心温度を低下させた。
この策が功を奏したのか、一時制御不能に陥っていた炉心内の核燃料の活動も次第に落ち着き、5月6日までに大規模な放射性物質の漏出は終わったとの見解をソ連政府は発表している。

砂の投下作業に使用されたヘリコプターと乗員には特別な防護措置は施されず、砂は乗員が砂袋をキャビンから直接手で投下していて、作業員は大量の放射線を直接浴びたものと思われるが不明。
サプレッション・プールの排水は、放射性物質を多く含んだ水中へ原発職員3名が潜水し、手動でバルブを開栓する作業だが不動により失敗、作業員は大量に被曝したがその後の消息は不明とされる。
これを受け消防隊12名がプール排水のためポンプとホースの設置作業を行いこちらはおおむね成功した。

爆発した4号炉をコンクリートで封じ込めるために、延べ80万人の労働者が動員され、4号炉を封じ込めるための構造物は石棺と呼ばれている。
事故による高濃度の放射性物質で汚染されたチェルノブイリ周辺は居住が不可能になり、約16万人が移住を余儀なくされた。
避難は4月27日から5月6日にかけて行われ、事故発生から1ヶ月後までに原発から30km以内に居住する約11万6000人全てが移住したとソ連によって発表されている。
しかし、生まれた地を離れるのを望まなかった老人などの一部の住民は、移住せずに生活を続けた。
放射性物質による汚染は、現場付近のウクライナだけでなく、隣のベラルーシ、ロシアにも拡大した。
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死者数
ソ連政府の発表による死者数は、運転員・消防士合わせて33名だが、事故の処理にあたった予備兵・軍人、トンネルの掘削を行った炭鉱労働者に多数の死者が確認されている。
長期的な観点から見た場合の死者数は数百人とも数十万人とも言われるが
、事故の放射線被曝と癌や白血病との因果関係を直接的に証明する手段はなく、科学的根拠のある数字としては議論の余地がある。
事故後、この地で小児甲状腺癌などの放射線由来と考えられる病気が急増しているという調査結果もある。

1986年8月のウィーンでプレスとオブザーバーなしで行われたIAEA非公開会議で、ソ連側の事故処理責任者ヴァレリー・レガソフは、当時放射線医学の根拠とされていた唯一のサンプル調査であった広島原爆での結果から、4万人が癌で死亡するという推計を発表した。
しかし、広島での原爆から試算した理論上の数字に過ぎないとして会議では4,000人と結論され、この数字がIAEAの公式見解となった。
結果的に、西側諸国は当事国による原発事故の評価を受け入れなかった。
2005年9月にウィーンのIAEA本部でチェルノブイリ・フォーラムの主催で開催された国際会議においても4,000人という数字が踏襲され公式発表された。
報告書はベラルーシやウクライナの専門家、ベラルーシ政府などからの抗議を受け、表現を変えた修正版を出すことになった。

事故から20年後の2006年を迎え、癌死亡者数の見積もりは調査機関によっても変動し、世界保健機関 (WHO) はリクビダートルと呼ばれる事故処理の従事者と最汚染汚染地域および避難住民を対象にした4,000件に、その他の汚染地域住民を対象にした5,000件を加えた9,000件との推計を発表した。
これはウクライナ、ロシア、ベラルーシの3カ国のみによる値でWHOによれば、前回4000件としたのは低汚染地域を含めてまで推定するのは科学的ではないと判断したためとしており、事実上の閾値を設けていたことが分かった。
WHOの国際がん研究機関 (IARC) は、ヨーロッパ諸国全体(40ヶ国)の住民も含めて、1万6,000件との推計を示し、米国科学アカデミー傘下の米国学術研究会議による「電離放射線の生物学的影響」第7次報告書(BEIR-VII)に基づき全体の致死リスク係数を10%/Svから5.1%/Svに引き下げられたが、対象範囲を広げたために死亡予測数の増加となった。
WHOは、1959年に、IAEAと世界保健総会決議においてWHA_12-40という協定に署名しており、IAEAの合意なしには核の健康被害についての研究結果等を発表できないとする批判もあり、核戦争防止国際医師会議のドイツ支部がまとめた報告書には、WHOの独立性と信頼性に対する疑問が呈示されている。

ウクライナ国立科学アカデミー(National Academy of Sciences of Ukraine)のIvan Godlevskyらの調査によると、チェルノブイリ事故前のウクライナにおけるLugyny地区の
平均寿命は75歳であったが、事故後、65歳にまで減少しており、特に高齢者の死亡率が高まっていることが分かった。
これは放射線およびストレスのかかる状況が長期化したことが大きな要因と見られる。
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原因
事故発生時、4号炉では動作試験が行われていた。試験の内容は、有事に電源が遮断された場合を想定し、非常用ディーゼル発電機が作動するまでの約40秒間、所内の蒸気タービンが慣性で回転することで発電できる電力でシステムが動作不能にならないか確認するというものであった。
しかし、責任者の不適切な対応や、炉の特性による予期せぬ事態の発生により、不安定状態から暴走に至り、最終的に爆発した。
動作試験は原子炉熱出力を定格熱出力の20 - 30%程度に下げて行う予定であったが、炉心内部のキセノンオーバーライドによって熱出力が定格の1%にまで下がってしまった。
運転員は熱出力を回復するために、炉心内の制御棒を引き抜く操作を行った、これにより熱出力は7%前後まで回復したが、反応度操作余裕(炉心の制御棒の数)が著しく少ない不安定な運転状態となった。
これにより実験に支障が出ることを危惧した運転員らは、非常用炉心冷却装置を含む重要な安全装置を全て解除したうえで、実験を開始した。
実験開始直後、原子炉の熱出力が急激に上昇し始めたため、運転員は直ちに緊急停止操作(制御棒の挿入)を行ったが、この原子炉は特性上制御棒を挿入する際に一時的に出力が上がる設計だったため原子炉内の蒸気圧が上昇し、緊急停止ボタンを押した6秒後に爆発した(緊急停止ボタンを押した事がきっかけで原子炉が暴走した【→制御棒を挿入しようとしたが、熱による制御棒ガイドの変形で挿入が途中で停止した】と一般的には考えられている。

この爆発事故は制御棒のなど根本的設計の欠陥。
運転員への教育が不十分、特殊な運転を行ったために事態を予測できなかった。
低出力では不安定な炉で低出力運転を続け、実験が予定通りに行われなかったにもかかわらず強行し、さらに実験の為に安全装置をバイパスしていた。
など多くの複合的な要素が原因として挙げられる。
学者らによる後の事故検証では、これらのいずれかがひとつでも守られていれば、爆発事故、或いは事故の波及を最小限に抑えることができた可能性が高かったとも言われている。
当初ソ連政府は、事故は運転員の操作ミスによるもの発表したが、事後の調査結果はこれを覆すものが多い。
重要な安全装置の操作が運転員の判断だけで行われたとは考えにくく、実験の指揮者の判断が大きかったものと推定される。
事故の前年の12月26日の原子力産業の記念日に合わせて4号炉を完工するために、耐熱材質を不燃性材質から可燃性材質へと変更し施工を強行したことも放射性物質の拡散拡大の原因のひとつに挙げられる。
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事故の経緯
4号炉は1986年4月25日に定期保守のためにシャットダウンすることが予定されていて、この時を利用して外部電源喪失時に4号炉のタービン発電機によって原子炉の安全システム(特に冷却水ポンプ)に十分な給電を行うことができるかどうかについての試験を行うことが決められた。
具体的には4号炉の出力を利用してタービンを回した後にこれを4号炉から切り離し、その際にタービン自体が慣性力で回り続けることによってどれだけの発電出力を得られるかという試験であった。この試験に際しては、原子炉の出力は標準出力の3.2GWから、より安全な低い出力である700MWまで減らす計画になっていた。
実験を行うために、実験予定日の前日から運転員は炉の出力を予定通りの700MWに落として実験開始に備えていた。しかし中央の出力司令所からの給電指令が長時間にわたり延期され、当初の予定時刻を過ぎても実験を開始できなかった。
その間、原子炉の内部では中性子を吸収する性質が強いキセノンがどんどん溜まっていき、キセノンオーバーライド状態になって出力が自然に低下し始めた。
運転員は低下した出力を無理に補うため挿入されていた制御棒を抜かざるを得ず、出力が下がっては抜き、下がっては抜きを繰り返すことによって、延びに延びた実験開始の時点では炉の自動制御棒の殆どが抜かれていたといわれている。

これにより、炉内の出力分布がまるでフタコブラクダのコブのような、本来核分裂反応が一番活発に行われているはずの中央部において低調で、逆に上下の部分に大きなピークが出現するという状態となっていた。
事故を引き起こした実験はこのような状態から開始された。
まず、上記のキセノンによる中性子吸収効果によって制御棒を目一杯まで引き出していた状態から実験に適した更に低い出力状態へ移行するために、制御棒が挿入された。しかしその瞬間、炉の出力は予定外の30MWまで低下した。
この出力レベルは安全規則が許す限界に近かったにもかかわらず、現場の指揮者は原子炉を停止せずに実験を強行する事を決めた。
しかも下がりすぎた出力を補うために本来の実験手順・要項の一部を省略し出力を200MWとすることに決めた。
結果として過剰となったキセノン135の中性子吸収を克服する為、多くの制御棒が炉から引き抜かれ、安全規則で定められていた最低限絶対必要な制御棒本数26本をやや下回る事となった。

実験の予備段階として、4月26日1時05分にタービン発電機によって動かされる冷却水ポンプが起動されたが、14分後の1時19分にはこれによって生成された水流が安全規則によって指定された流量を超えてしまう。水もまた中性子を吸収し炉の出力を下げる働きをするので、出力を確保するためにさらに炉から手動で制御棒を引き抜かなければならなくなった(爆発直前の制御棒本数は計6本にまで減らされていた)。
このような不安定な炉心状態で、1時23分04秒に実験が始まった。
原子炉の不安定な状態は制御盤にはまったく表示されず、原子炉の操作員たちの誰も危険に気付いていなかった。
冷却水ポンプへの電気が止められ、そのポンプがタービン発電機の慣性によって運転されるとその流量は減少した。
タービンは炉心で蒸気量を増やしつつある原子炉から切り離された。
冷却材が温められるにつれて、冷却材配管中に蒸気のポケットができた。
チェルノブイリのRBMK黒鉛減速炉は設計上、大きい正のボイド係数を持っているが、それは水の中性子を吸収する効果が無くなると原子炉の出力は急速に増加し、原子炉の運転が次第により不安定に、より危険になることを意味する。

1時23分40秒に操作員は「スクラム」(軽率にも引き抜かれていた手動制御棒を含むすべての制御棒の全挿入)を命令する「事故防衛」ボタンを押した。それが緊急処置として行われたのか、あるいはただ実験の一部として原子炉停止の型通りの方法として行われたのかは不明であるが、その予期しない速い出力増加を止めるための緊急対応として命じられたものだと一般には考えられている。
他方、チェルノブイリ原子力発電所の事故当時の最高エンジニア、アナトリー・ディアトロフ(英語)は、彼の著書で次のように述べている:

01:23:40より前には、中央制御システムは……スクラムを正当化するようなパラメータ変動を記録していなかった。委員会……が大量の資料を集め分析したが、その報告で述べられた通り、なぜそのスクラムが指示されたかの理由は特定できなかった。その理由を探す必要などなかった。
その原子炉はただ実験の一部として停止されたのだから。
制御棒挿入機構のスピードの遅さ(完了までに18 - 20秒)、制御棒の先端に存在する空洞、そしてその空洞と冷却材が一時的に置き換わることによって、スクラム操作は反応率を増やす結果になった。さらに、増えたエネルギー出力が制御棒径ガイドの変形を起こしたために、制御棒は3分の1だけ差し込まれたところで動かなくなり、原子炉の反応を止められなくなった。

1時23分47秒までに、原子炉出力は標準的な運転出力の10倍であるおよそ30GW(東京電力管内のピーク時総発電量の半分に相当)まで跳ね上がった。
燃料棒は融け始め、蒸気圧力は急速に増大して水蒸気爆発を起こし[33]、原子炉の蓋を破壊し、冷却材配管を破裂させ、屋根に穴を空けた。近隣の者による証言では発電所から赤く光る物体が次々と宙に舞い上がり、花火を見ている様だったという。

推測では爆発は2度あり、2度目の爆発によりおよそ1,000tあった蓋が破壊された。ソ連の事故報告書によれば、この2度目の爆発は、燃料棒被覆や原子炉の構造材に使用されていたジルカロイと水が高温で反応したことによって発生した水素による水素爆発である。

サイズの大きさと建設費削減のために、4号炉は部分的な封じ込めだけで建設されていた。
このため、蒸気爆発が一次圧力容器を破裂させた後、放射性の汚染物質が大気中に漏れることになった。
その屋根の一部が吹き飛んだ後、急速に流れ込んだ酸素と原子炉燃料の高い温度が合わさって、黒鉛減速材が黒鉛火災を起こした。
この火災は放射性物質の拡散と周辺地域の汚染の大きな一因になった。
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論争
目撃証言と発電所の記録の間に矛盾があるために、現地時間1時22分30秒の後に起こった事態の正確な繋がりについては今も解釈が分かれている。
最も広く合意されている説明は上で記述した通りであるが、この理論によれば、最初の爆発は操作員が「スクラム」を命令した7秒後のおよそ1時23分47秒に起きたことになる。
しかし、爆発がそのスクラムの前、あるいはすぐ直後に起きたと時々主張される(これはソビエト委員会の事故調査の作業途中での説明であった)。

この違いは重大である。なぜなら、もし原子炉がスクラムの数秒後に臨界になったなら事故原因は制御棒の設計にあると見なされるに対して、爆発がスクラムと同時に起こったのならば、責任は指揮者にあったことになるからである。
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事故発生直後の対応
行政当局の対応のまずさと適切な設備の欠如によって事故の規模は拡大した。
2011年の回想によれば、共産党中央委員会政治局会議(当時のソ連の最高意志決定機関)で原発担当大臣が書記長などに対し「大丈夫です」と述べたため対策が遅れた。
真相は現地の関係者からの知らせによって分かったという。

4号原子炉建屋に設置された線量計は、2つを除いて1ミリレントゲン毎秒までしか測定できないものだった。残りの2つの線量計は1,000レントゲン毎秒まで測定可能だったが、そのうち1つは爆発のために接近できず、もう1つは作動させた時に故障していた。そのため、原子炉の操作員は原子炉建屋の大部分の放射線レベルが4レントゲン毎時より大きいことを確認できただけだったが、実際の線量レベルは、最も高い区域で20,000レントゲン毎時であった。
このような不完全な情報に基づき、操作員の班長アレクサンダー・アキモフ(英語)は原子炉が損なわれていないと判断した。
このとき、建物周辺には黒鉛と核燃料の小片が横たわっていたが、原子炉破損の判断には繋がらなかった。また、現地時間4時30分までに持ち込まれたもう1つの線量計による測定値は、線量計の故障と判断された。
原子炉に水を送り込もうと作業を続けたアキモフと操作員は、翌朝まで原子炉建屋に留まったが、いずれも保護具を着用しておらず、大部分は事故後3週間で放射線障害のため死亡した。
事故直後、消防士が消火活動のために到着したが、彼らは放射性物質による煙や残骸等がどれほど危険であるかを告げられてはいなかった。
火災は5時までには消火したが、その間に多くの消防士が高い放射線量に曝された。
事故を調査するために政府委員会が招集され、副首相が4月26日夜チェルノブイリに到着したが、その時までに2人が死亡し、52人が入院していた。
4月26日の夜に、高いレベルの放射能と多人数の放射線被曝の十分な証拠に直面した委員会は原子炉の破損を認めなければならなくなり、ウクライナの近くの都市からの退避を命令した。
大惨事の拡大を止めるために、ソ連政府は清掃作業にあたる労働者を現地に送り込んだ。
陸軍兵士とその他の労働者で構成された多くの「解体作業者」が清掃スタッフとして送り込まれたが、大部分がその危険について何も知らされておらず、効果的な保護具は利用できなかった。

放射性の残骸のうち最悪のものは原子炉の残骸の中に集められた。
原子炉それ自身は事故の翌週にヘリコプターから投下された砂嚢で覆われた。
コンクリート製の石棺が、原子炉とその中身を封じ込めるために早急に建てられた。
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直後の結果
即座に入院した203人のうち死亡したのは31人で、28人が急性放射線障害だった。
彼らは事故を収束させるべく集まった消防と救急の労働者だったが、煙等からの放射線被曝がどれくらい危険であるかには気付いていなかった。

プリピャチの近くの町からの50,000人を含む合計135,000人が、この地域から避難させられた。
厚生当局は、次の70年に亘って、原子炉から放出されたヨウ素換算値で5 - 12EBqの放射能を持つ放射性物質で被曝した人の発癌率が2%増加するだろうと予測した。
この事故の結果、癌により10人が死亡した。

IAEAは1986年の分析では、操作員の運転操作を事故の主要な原因としていたが、1993年1月に、操作員の操作ミスではなく原子炉の設計に根本的な原因があると改訂した。
ソ連の科学者により、チェルノブイリ4号炉に装填された『二酸化ウラン燃料および燃料棒の総量を約190トンと推測されているが、このうち大気放出された総量は13 - 70%の範囲でばらつきがある。

チェルノブイリ事故による汚染は周辺の地方全体に均等に広がったわけではなく、天候により不規則な散らばり方をした。
ソ連および西側の科学者からの報告書は、ベラルーシが旧ソ連全体に降りかかった汚染の約60%を受けたと述べている。
しかし、北西ウクライナの一部でもあった、ブリャンスクの南にあるロシア連邦の広い地域も汚染された。

チェルノブイリは初めは秘密災害だった。
大きな原子力事故が起こったらしい事に気づいたのはスウェーデンで、4月27日にチェルノブイリ原発からおよそ1,100kmにあるスウェーデンのフォルスマルク原発の労働者の衣服に放射性の粒子が付着していることがきっかけとなった。スウェーデンが放射性物質の発生源の捜索を行った結果、この漏洩がスウェーデンの原子力施設からではないと断定され、西ソ連で重大な原子力問題が起こっていることが発覚した。
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影響
事故後放棄された商用発電炉の歴史で、放射線による死者が出たのはこれが初めてだった。

2000年4月26日の14周年追悼式典での発表によれば、ロシアの事故処理従事者86万人中5万5000人が既に死亡しており、ウクライナ国内(人口約5000万人)の国内被曝者総数342.7万人の内、作業員は86.9%が病気に罹っている。
また、周辺住民の幼児・小児などの甲状腺癌の発生が高くなった。

世界各地に降下した放射性物質による各地の被害線量はそれぞれ異なる。
高所爆発の核爆弾と、地上爆発の原発では汚染実態が異なり、爆弾の方が高所から遠方へ高速で飛散し、平方mあたりの被害が小さくなりやすい。
核爆弾は少量の核の大半を瞬時に反応させ終えてしまうが、原発事故は大量の核のゆるやかな核反応つまり臨界が長く続く。
核爆弾は1発あたりの放射性物質の総量は数キログラムから数十キログラムと非常に少なく、原発は1カ所あたりの総量が非常に多い、など、単純比較にはあまり意味が無いともいえる。


国連科学委員会の「原子放射線の影響に関する国連科学委員会」(UNSCEAR-1993)によると1945年から60年代に行われた約500回の大気圏核爆発により拡散した放射性物質による集団積算線量は2230万人・Svと推定されている。対してチェルノブイリ事故による集団積算線量は60万人・Svと推定されており核爆発の約13回分(40分の1)に相当している。

国連科学委員会は2008年の報告で集団積算線量を以下のように推定している。
(1986-2005年の間の累計値)
復旧作業者、53万人の集団積算線量は61200人・Sv、平均一人117mSv
避難民、11万5千人、集団積算線量は3600人・Sv、平均一人31mSv
ベラルーシ、ロシア、ウクライナの汚染地区に住む住民、640万人、集団積算線量は58900人・Sv、平均一人9mSv と試算されているが、これはガンマ線による外部被ばくのみである。
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直後の影響
爆発時、炉心内部の放射性物質は量にして推定10t前後、14エクサベクレルに及び放射性物質が放出され、北半球全域に拡散した。
周辺地域の家畜に放射性物質が蓄積され、肉、牛乳も汚染された。
事故直後の社会現象としては、例えば、日本では欧州産スパゲッティの販売量が一時的に急減した。
「放射線障害に効く」というデマが流れ、ヨード卵の価格が高騰した。
日本では、この事故をきっかけに原子力発電そのものに対する一般市民の不安が急増した。
このため、政府は、『日本の原子炉はアメリカ型で、事故を起こしたソビエト型とは構造が異なり、同様の事故は起きない』という説明を行った。
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放射性物質の長期的動向
最近の試験(1997年頃)によると、
この区域内の木の中のセシウム137のレベルは上がり続けている。
汚染が地下の帯水層や、湖や池のような閉じた水系に移行しているといういくつかの証拠がある(2001年、Germenchuk)。
雨や地下水による流去は無視できるほど小さいことが実証されているため、消滅の主な原因は、セシウム137がバリウム137へ自然崩壊したことによるものと予想されている。

労働者と解体作業者 [編集]事故後に復旧と清掃作業に従事した労働者は高い放射線線量の被曝を受けた。
ほとんどの場合、これらの労働者は受けた放射線量を計測するための個人線量計を装着していなかった。
それゆえ専門家は彼らの被曝線量を推定するしかなかった。
線量計が使われていた場合でも、測定手順はまちまちだった。
一部の労働者たちは他の者よりも大量の放射線量を受けたと推定された。
ソ連の推定によると、30万から60万人が炉から30kmの退避区域のクリーンアップに従事したのだが、その多くは事故から2年後にその区域に入った解体作業者と事故の処理と復旧作業のためにその区域に立ち入った労働者の推定人数はまちまちである。
例えば、世界保健機関 (WHO) は約80万人とし、
ロシアは汚染区域で働いていなかった一部の人間も解体作業者としてリストに含めている)。事故から最初の1年で、この区域のクリーンアップ労働者は約21万1,000人と推定され、これら労働者は推定平均線量165ミリシーベルトを受けた。
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避難
事故により立ち入り禁止措置がなされゴーストタウンになったウクライナプリピャチの市民プールプリピャチ市内
清掃作業に従事した者に授与された勲章ソ連政府は事故から36時間後にチェルノブイリ周辺の区域から住民の避難を開始した。およそ1週間後の1986年5月までに、当該プラントから30km以内に居住する全ての人間(約11万6000人)が移転させられた。その他、当該プラントから半径350km以内でも、放射性物質により高濃度に汚染されたホットスポットと呼ばれる地域においては、農業の無期限での停止措置および住民の移転を推進する措置が取られ、結果として更に数十万人がホットスポット外に移転した。

ソ連の科学者の報告によると、
28,000km2が185000Bq/m2を超えるセシウム137に汚染した。
当時、約83万人がこの区域に住んでいた。約
10,500km2が555000Bq/m2を越えるセシウム137に汚染した。
このうち、ベラルーシに7,000km2、ロシア連邦に2,000km2、ウクライナに1,500km2が属する。当時、約25万人がこの区域に住んでいた。これらの報告データは国際チェルノブイリプロジェクトにより裏付けられた。
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健康被害
赤色:小児(0 - 14歳)民間人に対する長期的影響についての問題は、議論の余地が大きい。この事故で生活に影響が出た人の数は極めて多く、原発から半径30km圏内の住民約11万6000人が即時に強制避難、ついで線量ホットスポットである北西約100km圏内も避難対象となり、計40万人超が移住を余儀なくされた。
また約60〜80万人が事故後の処理に従事した。
現在も約2億人の人々が汚染区域に住み続けている。
その一方で、これらの人々の大部分は、比較的に低線量の被曝であると言われる。


汚染区域の子供は甲状腺に、
最大で累積50グレイ=50Svの放射線量を被曝した。
これは
汚染された地産の牛乳を通じ、甲状腺に蓄積される性質を持ち、半減期の短いつまり高線量である放射性ヨウ素を多量に摂取したためであり、また子供は身体および器官が小さいため、大人よりも累積線量が高くなるためでもある。
IAEAの報告によると、事故発生時に0歳から14歳だった子供で、1,800件の記録された甲状腺癌があったが、これは通常よりもはるかに多いと記されている。
発生した小児甲状腺癌は大型で活動的なタイプであり、早期に発見されていたら処置することができた。処置は外科手術と、転移に対するヨウ素131治療が必要である。現在までのところ、このような処置は診断されたあらゆるケースにおいて成功を収めているようだ。

1995年、世界保健機関 (WHO) は、子供と若年層に発生した700件近い甲状腺癌をこの事故と関連付けた。10件の死亡が放射線に原因があるとした。
しかし、検出される甲状腺癌が急速に増えているという事実は、そのうち少なくとも一部はスクリーニング過程によって作り出されたものであることを示唆している。
放射線により誘起される甲状腺癌の典型的な潜伏期間は約10年であるのに対し、一部地域での小児甲状腺癌の増加は1987年から観測されている。

しかし、この増加が事故と無関係なのか、あるいはその背後にあるメカニズムかは、まだ十分に解明されていないとIAEAは主張している。
資金不足、不十分な時系列的疫学調査、貧弱な通信設備、および多くの要因からなる緊急の公衆衛生問題により、旧ソ連では疫学的調査が遅々として進んでいない。
適切に設計された疫学的調査よりも、スクリーニングに重点が置かれてきた。
適切な科学インフラが不足しているため、国際的に疫学的調査を体系立てて行うことが遅れている。


ベラルーシ・ウクライナは、環境の回復、退避と再定住化、汚染されていない食料の開発と食料流通経路の開発、公衆衛生への対策などを行ってきたが、重過ぎる負担になっている。
国際機関と外国政府は広範囲に渡る物流支援、人道支援を行ってきた。
加えて、欧州委員会 (EC) と世界保健機関は、ロシア、ウクライナ、ベラルーシでの疫学的調査基盤を強化し、あらゆる種類の疫学的調査の能力を向上させている。
住民が元々暮らしていた場所から離れた区域へ再定住化した結果、家族、社会ネットワークが離散し、既に住んでいる住民から嫌われるような地域に移転することにより、心理的影響が与えられた。
住民は現在でも少なくとも半年に1回は定期的な健康診断を受けており、健康に不安を持っている。
一部の人には、男性では頭髪が抜けたり、女性ではひげが濃くなったりといった症状を訴える人もいる。
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癌の症例
いくつかの研究により、ベラルーシ、ウクライナ、およびロシアの子供での甲状腺癌の発生が増えていることが判った。
国際連合人道問題調整事務所の立ち上げた「The United Nations and Chernobyl」によると、ウクライナでは350万人以上が事故の影響を受けており、その内の150万人が子供であった[46]。癌の症例数は19.5倍に増加し、甲状腺癌で54倍、甲状腺腫は44倍、甲状腺機能低下症は5.7倍、結節は55倍となった。
ベラルーシでは放射性降下物の70%が国土の四分の一に降り、50万人の子供を含む220万人が放射性降下物の影響を受けた。
ベラルーシ政府は15歳未満の子供の甲状腺癌の発生率が2001年には1990年の2000例から8,000-10,000例に急激に上昇したと推定している。
ロシアでは270万人が事故の影響を受け、1985年から2000年に汚染地域のカルーガで行われた検診では癌の症例が著しく増加しており、それぞれ、乳癌が121%、肺癌が58%、食道癌が112%、子宮癌が88%、リンパ腺と造血組織で59%の増加を示した。
ベラルーシとウクライナの汚染地域でも乳癌の増加は報告されている。

2011年、アメリカ国立衛生研究所の一機関であるアメリカ国立癌研究所による国際的な研究チームは、子供の被曝は、大人が被曝した場合に比べて甲状腺癌にかかるリスクが高く、さらに依然として甲状腺癌の発症リスクが減少傾向に転じていないことを報告した。
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白血病
アメリカ国立癌研究所の調査結果によると、慢性被曝による癌リスクは日本の原爆被爆者が受けた急性被曝によるリスクに匹敵し、放射能汚染は、白血病全体のリスク増加に加え、チェルノブイリ事故前には放射能被曝との関連性が知られていなかった慢性リンパ性白血病に影響を及ぼしていることが分かった。
過去の被曝者の健康調査の結果、白血病は被曝から発病まで平均12年、固形癌については平均20 - 25年以上かかることが分かっている。
このことから、白血病および固形癌が通常に比べてどれだけ増加するのかは継続的な調査によって判明すると予想される。
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自然界への影響
ウクライナ国立チェルノブイリ博物館に展示されている犬の二殿体奇形[55]第一回チェルノブイリ事故の生物学的、放射線医学的観点にかかる国際会議(1990年9月)でのソビエトの科学者による報告によると、当該プラントから10km区域での放射性降下物のレベルは4.81GBq/m2であった。
大量の放射性降下物により枯死したいわゆるマツの「赤い森」が10km区域内のサイトのすぐ背後の地帯に広がっている。この森は事故後、極めて大量の放射性降下物により枯死して赤茶色に見える木々のためにそう名づけられた。事故後のクリーンアップ作業の中で、4km2の森の大部分が埋め立てられた。赤い森のある場所は、世界で最も汚染された地域の一つである。

この地域の動植物に放射性降下物が長期的な悪影響をもたらしたかどうかは未だ分かっていない。
動植物は人間に比べ、放射線耐性が大きく異なり、また幅広く差があるためである。
この地域の一部の植物が突然変異しているという報告もあり、そのため、奇怪な姿に変異した多くの植物があるという「ふしぎの森」や「奇怪な森」についての根拠の無い噂がいくつか生まれている。
また、
植物に限らず動物や昆虫の奇形化・巨大化も一部で起こった。
しかしながら、その場所から人間がいなくなったことが自然の復活をもたらしつつあるようで、たとえば事故後およそ20年後現地に入ったウクライナ系米国人ジャーナリストによれば、イノシシを主として、幾つかの希少な動植物が数を増やしているという。
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事故後のチェルノブイリ
チェルノブイリプラントのトラブルそのものは4号炉の惨劇で終わったわけではなかった。
ウクライナ政府は、国内のエネルギー不足のため残った3つの原子炉を運転させ続けた。
この時のウクライナ政府は財政難で新規の発電所の建設が困難であったため、チェルノブイリ原子力発電所をそのまま使わざるを得なかった。
1991年に2号炉で火災が発生し、政府当局は炉が修復不能なレベルまで損傷していると宣言して、電源系統から切り離した。1号炉は、ウクライナ政府とIAEAのような国際機関との間の取り引きの一部として、1996年11月に退役した。
2000年11月に当時のウクライナ大統領・レオニード・クチマ本人が公式式典で3号炉のスイッチを切り、こうして全プラントが運転停止した。
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石棺
石棺。炉心を中心に設計されている。
4号炉は事故直後、大量の作業員を投入し、「石棺」と呼ばれるコンクリートの建造物に覆われた。
建設は6月に開始され、11月に完成した。耐用年数は30年とされており、老朽化への対策が望まれている。
事故後、放射能汚染により人が立ち入ることができなかったことから、原発事故の直撃を受けた職員の遺体が搬出されなかった。事故直後に無防備のまま炉の中に入った数名の作業者の行方が未だ分からず、現在も石棺の中に数名の職員の遺体が残っているものと思われるが、彼らの遺体を搬出できるようになるまでには数世紀に亘る長い時間がかかると見られている。

石棺の中では放射性物質拡散防止のために特殊な薬剤が散布されているが、大半が外部に流出しているとみられている。
なお、『10日間で収束した』という曖昧な俗説が見受けられるが、実際は簡易的に線源放出量を下げる応急処置が功を奏するまでの期間に過ぎない。
石棺の完成までは事故発生から7ヶ月を要している。
時系列的には、4月27日にホウ酸、石灰、鉛、粘土、砂など5000トンを炉内へ散布し放射線源放出量が1/3、5月1日までには1/6に低下、翌2日、核燃料の崩壊熱と制御棒黒鉛棒の火災熱により温度上昇し線量が再び増加、翌3日にはこの高温化した炉内と水分との接触を回避するためにサプレッションプールから水抜き作業を開始(再度水蒸気爆発の回避)、翌4日には放出線量が事故当日の半分にまで増加、翌5日には液体窒素注入を開始し急激な線量低下を達成した、という流れである。
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将来の補修の必要性
石棺はこの場合効果的な封印手段ではなく、石棺の建設は応急処置である。大半は産業用ロボットを用いて遠隔操作で建設されたために老朽化が著しく、万が一崩壊した場合には放射性同位体の飛沫が飛散するリスクがある。より効果的な封印策について多くの計画が発案、議論されたが、これまでのところいずれも実行に移されていない。国内外から寄付された資金は建設契約の非効率的な分散や、杜撰な管理、または盗難に遭うなどして浪費される結果となった。

現在も年間4,000kl近い雨水が石棺の中に流れ込んでおり、原子炉内部を通って放射能を周辺の土壌へ拡散している。石棺の中の湿気により石棺のコンクリートや鉄筋が腐食し続けている。

その上事故当時原子炉の中にあった燃料のおよそ95%が未だ石棺の中に留まっており、その全放射能はおよそ1,800万キュリーにのぼる。この放射性物質は、炉心の残骸や塵、および溶岩状の「燃料含有物質 (FCM) 」から成る。このFCMは破損した原子炉建屋を伝って流れ、セラミック状に凝固している。単純に見積もっても、少なくとも4tの放射性物質が石棺内に留まっている。
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シェルター構築計画
シェルター構築計画 (SIP) は、現在4号炉を覆っている石棺の上に、新安全閉じ込め設備 (NSC) と呼ばれる、石棺を覆うようにして滑らせる可動式のアーチを建設し、それを使用して石棺内にあるとされる放射性物質や汚染された瓦礫などを排除し、4号炉の中にある放射能をゼロにするという計画である。放射能や水の汚染などの問題解決が期待されるが、建設に莫大な費用(推定コストは7億6800万ドル)や労力がかかるという問題がある。NSCの概念設計は、高い放射線場を避けるためシェルターから離れた場所で建設してから取り付ける方式をとる。
NSCは史上最大級の可動式構造物になることが想定される。
チェルノブイリシェルター基金は1997年のデンバーG7サミットでシェルター構築計画に資金を提供するために設立された。
シェルターはベクテル、バッテル記念研究所(英語)、フランス電力公社によって管理される予定。
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訪問
2010年12月21日より、ウクライナ政府は正式にチェルノブイリ原子力発電所付近への立ち入りを許可した。
本来は発電所から半径30km以内はそれまで立入禁止であった。
ウクライナ政府が正式にこのような許可を発表したのは、現在は発電所付近の放射線レベルが低くなったためとの発表があったためである。
キエフからはツアーが催行されている。無人の土地となった現地一帯は、野生動物の宝庫となっている。
大衆の認識の中のチェルノブイリ
チェルノブイリ事故は国際的な注目を集めた。
その結果として「チェルノブイリ」は大衆の認識に多くの異なった姿で刻み込まれることとなった。
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政治的余波
チェルノブイリ事故は明らかに大規模災害であったため、世界中のメディアの注目を集めた。
原子力のリスクに対する大衆の認識は大幅に上がった。
原子力推進側と反対側の団体が、大衆の意見を動かすために多くの努力を払った。
死傷者の数、炉の安全性の評価、および他の炉でのリスク評価は、著者がどちらの立場に近いかによって大きく異なる。
例えば、原子放射線の影響に関する国連科学委員会は、国際連合人道問題調整事務所の刊行物に関して、公に批判した。このように、この問題の真実を明らかにすることはかなり困難である。
実際の事故の原因、経過に関しては、ソ連首脳部に対しても、より現場に近い組織、人間が事実を隠蔽しようとする動きがあった。
これは、スターリン体制以来の恐怖政治から、当事者が懲罰を恐れ自らの保身を第一に考えたためである。
この体質に対して最高指導者のミハイル・ゴルバチョフは苛立ち、グラスノスチ(情報公開)の徹底を指導した。事故は改革派としてのゴルバチョフのイメージに傷をつけることになった。
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                                        以上wikipediaよりわかりやすく転記
ヨーロッパ各国の汚染
西ドイツのセシウム汚染
マップ

※ ミュンヘン周辺は東京都の汚染の5倍から10倍の汚染がありました。
それでも、ドイツ全土に飛散したセシウム137の全量は500gでしかないのです。
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外部リンク
チェルノブイリ事故によって日本が受けた被害リンク

チェルノブイリ http://www.affrc.go.jp/agrolib/RN/0000096962.pdf
チェルノブイリと日本の汚染 http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/seminar/No110/2011031
東ドイツの汚染(原文、現在翻訳中) 2011_03_12_tschernobyl.pdf
                                                                        目次に戻る