もうひとつの新潟地震

新潟地震から今日で50年目となります。
新潟といえば、中越地震、中越沖地震を連想される方が多いと思います。
新潟地震は、私が小学生の時に体験した地震で、今日(2014.6.16)日で50年になる地震で、新潟市を直撃した大地震です。

新潟地震(にいがたじしん)は、1964年(昭和39年)6月16日13時1分41秒(JST)、新潟県粟島南方沖40km(北緯38度22.2分、東経139度12.7分、深さ34km)を震源として発生した地震。地震の規模はM7.5。
新潟、山形県の総被害者は26人、新潟県の被害者は14人でした。
新潟では4メートルの津波が来襲(砂浜への駆け上がり現象では6mを記録)しても、津波による犠牲者は一人も出ませんでした。
※ 中越地震では直接死が16名、中越沖地震では死者数が15名

●新潟県最大の都市、新潟市を直撃した当時の資料からご紹介します。

   当時の震度表示は現在の7段階評価と異なり、5段階評価で震度5は最高値となります。
    

●昭和石油コンビナートが爆発炎上


●新潟市を襲った津波






●建造物への被害
 











●道路の被害






●鉄道網の被害






●秋田沖地震(日本海中部地震)による津波被害
日本海中部地震(にほんかいちゅうぶじしん)は、1983年(昭和58年)5月26日11時59分57秒に、秋田県能代市西方沖80km(北緯40度21.6分、東経139度4.4分、深さ14km)の地点で発生した逆断層型の地震。マグニチュードは7.7であった。

男鹿市の加茂青砂では、遠足で訪れていた北秋田郡合川町(現在の北秋田市)立合川南小学校の児童43人と引率教諭たちが津波に襲われた。
多くは漁船や付近の女性などに救出されたが、児童13人が死亡した
遺留品の散乱する現場の空撮映像が全国ニュースで配信されたこともあって、県民や国内はもとより日本国外にも大きな衝撃を与えた。
合川南小学校にはローマ法王ヨハネ・パウロ2世をはじめ、全世界からメッセージが寄せられた。
また同校では外国人音楽家による無料演奏会も催された。
男鹿市立加茂青砂小学校(2001年(平成13年)4月に北陽小学校へ統合され廃校)には、合川南小学校の慰霊碑が建立されている。
警察庁 1983年12月
死者・負傷者数 住宅被害数(棟) 船舶(隻)
地域 死亡 負傷 全壊 半壊 流出 一部損壊 沈没 流出 破損
北海道 4 19 9 12   42 180 289
青森県 17 4         21 65 228
秋田県 79 71   485 52 202 60 136 483
山形県              9  
新潟県   2           8 24
石川県   3 1 2     12 6  
京都府             7 18
島根県   5         104 56 145
合計 100 104 10 499 52 202 235 451 1187
http://www.youtube.com/watch?v=PblWn82hJSk 秋田沖地震の津波

男鹿市の加茂青砂海岸

写真でもわかりますが、安全な所までわずか100メートルにも満たないのです、地震発生から津波到達まで14分、なぜ逃げる事ができなかったのでしょうか?

●記憶に新しい東日本大震災での被害
2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)に伴う津波が地震発生後およそ50分経った15時36分頃、三陸海岸・追波湾の湾奥にある新北上川(追波川)河口から約5kmの距離にある石巻市立大川小学校を襲い、校庭にいた児童108名中74名と、教職員13名中、校内にいた11名のうち10名が死亡した。
スクールバスの運転手も死亡している。

地震後の学校の対応
地震直後、校舎は割れたガラスが散乱し、余震で倒壊する恐れもあった。
教師らは生徒を校庭に集めて点呼を取り全員の安否を確認したのちに、避難先について議論を始めた。
学校南側の裏山は有力な避難先であったが、急斜面で足場が悪いことから、生徒らが登って避難するには問題があるとされていた。
約200m西側にある周囲の堤防より小高くなっていた新北上大橋のたもと(三角地帯)も避難先候補となり、裏山へ逃げるという意見と、老人も含まれていることを考慮して三角地帯にするべきという意見が教職員の間で対立し、最終的に三角地帯に避難することになり移動を開始した。

津波到着
その直後、堤防を乗り越えた巨大な津波が児童の列を前方からのみ込んだ。
列の後方にいた教諭と数人の児童は向きを変えて裏山を駆け上がり、一部は助かったが、迫りくる津波を目撃して腰を抜かし、地面に座り込んで避難できない児童も居た。
家族が車で迎えに出向き、独自に避難した生徒は助かった。
避難先として選定した三角地帯も標高不足で津波に呑み込まれており避難が完了していても被害は避けられなかった。
難を逃れた児童22名は新学期より、同校より10km離れた石巻市立飯野川第一小学校へ通学していたが、2014年からは石巻市立二俣小学校敷地内の仮設校舎に移転している。
校舎も新たに建て直す予定だが、時期や場所などは未定。
その大川小には、犠牲者を慰霊するために制作された母子像が設置され、2011年10月23日に除幕式が行われた。


地震発生後の対応への非難
地震発生から津波到達まで50分間の時間があったにも関わらず、すぐに退避せず校庭に生徒を座らせて点呼を取る、避難先についてその場で議論を始めるなど学校側の対応を疑問視する声が相次いだ。
普段から避難に関する教育を徹底し生徒らだけの自主的避難で全員無事だった釜石小学校や、地震直後より全員高台に避難させ在校生徒が全員無事だった門脇小学校と対照的とされた。
ただし宮城県が2004年3月に策定した第3次地震被害想定調査による津波浸水域予測図では、津波は海岸から最大で3km程度内陸に入るとされ、大川小学校には津波は到達しないとされていた。
そのため大川小自体が避難先とされていたケースもあり、実際に地震の直後高齢者を含む近所の住民が大川小学校に避難してきた。
被災後の議論で石巻市教育委員会は、学校の危機管理マニュアルに津波を想定した2次避難先が明記されていなかった点で責任があると認め、父母らに謝罪している。
2012年12月、大川小の惨事を検証する第三者検証委員会が設置された。
2013年7月の中間報告で調査委員は、大川小の「地震(津波)発生時の危機管理マニュアル」に「第1次避難」は「校庭等」、「第2次避難」は「近隣の空き地・公園等」と記載があるのみで具体的場所の記載が無かったことを指摘したものの、遺族からは既に判明している事柄ばかりで目新しい情報がない、生存者の聞き取り調査を行っていない、なぜ50分間逃げなかったのか言及がないなど不満が噴出した。
2013年9月8日、石巻市教育委員会による遺族説明会が約10ヶ月ぶりに行われ、「話し合いを拒んできた理由を説明してほしい」など批判が相次いだ。
2014年3月1日に「大川小学校事故検証報告書 最終報告書」が石巻市に提出された。
2014年3月10日、犠牲となった児童23人の遺族が宮城県と石巻市に対し総額23億円の損害賠償を求める訴訟を仙台地方裁判所に起こした。


大人の無知と迷信
ここで二つの小学校を例に書きましたが、「秋田沖地震」では日本海で津波が発生しないとの大人の迷信によって、立合川南小学校児童の多くが犠牲となっています。
石巻市立大川小学校では、大人が作った仮想ハザードマップ(想定)から、ここまで津波は到達しないとの「迷信」によって多くの児童を犠牲にしました。

危機管理とはなんでしょうか?想定を超えた事態が発生した時に「危機」が発生すると私は考えています。
津波到達まで14分もの余裕があったのに海岸にとどまっていた立合川南小学校、津波到達まで50分もの時間がありながら74名もの児童を犠牲にした石巻市立大川小学校どちらの小学校も「大人の無知と迷信」によって多くの犠牲者を出してしまったのです。

仮想避難シュミレーション
●秋田沖地震は11時59分に発生しています、加茂青砂海岸で立合川南小学の児童達はちょうど昼食の時間に重なり、逃げるための後片付けをしていたのかも知れませんが、日本海の地震による津波は待ったなしで襲いかかります(時間にして2分〜10分)。
後片付けなどしている余裕などまったくありません、荷物など放り出して安全な所に避難するのが鉄則なのです。
●大川小学校では11名の教員がいました、津波は点呼を取っている間にも押し寄せる可能性があります。
11名の教員は点呼を取る事よりも危険地帯から避難する必要があります、教員を2班に分けて避難誘導と校舎内に残った児童がいないかかを点検する事で簡単に犠牲者を出さなかったはずです。
「老人に山は登れない」、でも絶対に子供達が手を貸してくれるはずです。
形式にだけとらわれて、想定外の危機管理能力が大人には欠如していた結果が大きな犠牲者を生んでしまったのです。
想定を超えた所に「危機管理」は存在します、多くの事例が存在しながら大人の「迷信」によって子供達に多くの犠牲が発生しているのです。

198名の津波犠牲者を出した奥尻島の北海道南西沖地震との大きな違いは、奥尻ではわずか3分で第一波が到達してしまいましたが、十分に逃げる余裕がありながら「迷信」よって多くの犠牲者が出ているのです。
さらに逃げない事は一個人だけの問題ではありません、避難を呼びかけていた消防署、消防団や市の職員、警察官などは一名でも残っている限り自分達も避難出来ないのです。
一名の「迷信」を信じる人によって多くの二次被害者が発生します、犠牲者は一人の無知から多くの犠牲者を生み出します、災害において「避難しない」の洗濯枠は存在しないのです。

東日本大震災で、本当に逃げ切れずに津波の犠牲になった人はいったい何人いたのでしょうか?
ハザードマップは「想定」の中でしか存在しえません、また震災が発生した時に「想定外」にするのでしょうか?
大人の迷信によっ多くの子供達が犠牲になっています。

阪神淡路大震災では当時の首相「村山富一」(社会党))によって海外支援要請と自衛隊の出動要請が3日も遅れています。
大人の迷信と判断によって東日本大震災でも多くの子供が犠牲となっています、私を含む大人はこれだけ多くの事例がありながら何故学習できないのでしょうか?大人の無知は多くの子供を道連れにしてしまいます。
ここまで津波は来ない、単なる大人の「迷信」によって失われた子供達の命、全滅に近かった新潟市が復興した様に建物やインフラだったら絶対に復興できますが、失われた幼い命は戻ってきません。


子供が犠牲になったほとんどは保護者や教師などの大人が関与し、迷信にとらわれた決断の甘さや自然の力を甘く見ていた結果なのです。

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